「神々のたそがれ」アレクセイ・ゲルマン

アレクセイ・ゲルマンという怪物。

~(以下、ネタバレありに付き閲覧自己責任にて)~


視聴時の筆者の状況
・ゲルマンの過去4作全て観覧済
・原作未読
・今回はほぼ予備知識なしで視聴。従って初見時の印象を優先するが、記事の整合性を取るためパンフ等の資料を参考に補足してあります



〔感想本分〕
例えば「肥溜め」に入れと言われるのと、風呂桶サイズの「痰壺」へ入れと言われるのだったら、あなたはどちらを選ぶだろうか。私ならば「肥溜め」を選ぶかも知れない。いくら糞が強烈な悪臭であろうとも、時間が経てばそれも慣れてしまえそうだが、痰のあの粘っこい感じはいつまでも馴染めそうにないからだ。

アレクセイ・ゲルマンの新作はまさかのSFを題材に取った混沌とグロテスクの絵巻であった。ストルガツキーの原作「神はつらい」は未読だが、タルコフスキーが映画化した「ストーカー」他何作はたしなんだことがある。

ゲルマンと言えば初の監督作「道中の点検」に代表されるように写実的な描写が特徴的だが、「フルスタリョフ、車を!」ではシュールレアリスムを前面に押し出した一種異様な映像で度肝を抜いたことは記憶に新しい。というか、とてもじゃないがあのインパクトは忘れられない。昨日のことのように覚えている。

今回の新作もその「フルスタリョフ」を踏襲したものとなったと言える。少なくとも一度観た印象では。

舞台は地球より800年ほど進化が遅れた惑星アルカナル。調査のため地球より研究団が送られるが、そこで繰り広げられる殺戮や圧政など、彼らにそれを辞めさせる術はない。しかし地球人は文明的に優れていたので、特に彼らの内のひとりドン・ルマータは「神」として崇められ、手厚い庇護のもとにあった。

冒頭、人工池のようなところの俯瞰から始まる映像は、「道中の点検」で戦場へ向かうパルチザンの一団が、途中で穴を掘って芋だかなんだかを洗っていた水たまりを彷彿とさせるものがあった。

それから雨の描写。「道中の点検」やその他のゲルマン作品でも雨は印象的に用いられていたが、それが今回はほとんどずっと降りっぱなしと言う思い切った演出に踏み切っている。

しばらくの間はストーリーが大きく動くということはなく、主人公ドン・ルマータが自らの根城をそこかしこと練り歩きながら、異様な風体の異星人たちに絡んで回る会話劇といった印象がある。この様子はさながら「フルスタリョフ」の主人公である陸軍医師が院内を回診する光景を思い出させるものがあった。

このようにゲルマン監督自身がこれまで制作して来た作品へ、自らオマージュをしていると取る向きもあるだろうが、その一方でこれまでゲルマンが用いて来たモチーフで今回は導入されていないものもいくつか見られる結果となっている。

ひとつは「タバコ」である。「道中の点検」では主人公ラザレフがタバコを吸うシーンが印象深く残っている。彼はものすごい土砂降りの中でもタバコを吸う。新作においてもタバコの習慣はあるようだが、それはパイプで吸われており、いわゆる紙巻タバコの類はないように見受けられる。

そしてもうひとつは「機関車」である。これは強いロシアの象徴であり、ゲルマン作品におけるいわゆる「刻印」といってもよいモチーフなのだが、文明の遅れた惑星を舞台にしたことで登場の機会を失ったということだろうか。

大まかな印象としては、全体的に「フルスタリョフ」と構成を同じくする様子が伺える。「フルスタリョフ」では陸軍医師がユダヤ人をかくまっていた。陸軍医師自身がユダヤ人である。方や「神々のたそがれ」では、粛清の進む時勢に反旗を翻しドン・ルマータが知識層をかくまっている。そして陸軍医師が警察に連行され拷問を受ける流れと、ドン・ルマータが逮捕され同じく罰を受けるというシークエンスは、両作品に共通したディテールとなっている。

しかしながら「神々のたそがれ」を見た後では、「フルスタリョフ」でさえ、その布石でしかなかったと思うほど、今のゲルマンの激しさの前に霞んでしまうことになるだろう。何ゆえここまで怒っているのか。たった一度観た限りではとても及びが付くものではなさそうだ。

もっとも資料によれば、実はゲルマンが一番最初に監督として着手したがったのは、この「神々のたそがれ」であったという事実。これが意味するところは、ゲルマンの本質は最初から変わりなかったということである。始めからこの激しさがあったということなのだろう。

つまり処女作(単独としては初の)「道中の点検」もまた今一度細部まで見直してみれば、「神々のたそがれ」と同等の激しさに満ちていることを感じられるのかも知れない。実際にこの作品は1971年に制作されていながら、当局の検閲が入りペレストロイカ以降まで上映を禁止されている。これこそが当時この作品がもたらしたインパクトとセンセーションがどれほどのものであったかを伺い知る手立てとならないだろうか。

人々が「神々のたそがれ」を語るとき、そこにスターリン時代の粛清や圧政を見る向きもあるだろう。史実と結び付けて考えることで、物語のディテールを検証してゆく手段は非常に有効である。特にゲルマンのように時代背景など綿密に調査する監督であれば尚更。「わが友イワン・ラプシン」では1930年代、ロシア革命が成功し一般的にはロマンに満ちていた時代として伝えられていた頃の暗部を描いた。30年代をこうした視点で描いた作品は稀有であり、そう言った意味から歴史的価値に優れた映画となっている。

しかしそれは他に譲ることとして、私自身の言葉で語るとなると・・・正直なところ、語るに野暮なのである。ゲルマンを語ろうなんざ、そうめんをソースで食べるのと同じくらい無粋であるとしか思えない。

ゲルマンは我々に物語を「観せている」のではない。物語そのものの中に放り込むのである。独特のカメラワークは観覧者を「物語の中から」観させる。かねてより採用されているこの手法は更に洗練され、「神々のたそがれ」において完成を見たと言っても良い。

「目が離せない物語」というものがある。ところが「神々のたそがれ」においては「目を離せない」のではなく、「目を離せなく」させられてしまうのだ。何故なら、既に物語に参加している我々は、映像の中に登場する人物たちにもまた覗かれているからである!

カメラを覗きこむ役者たちによって、無理やり振り向かせられ、叩き起こされ、「今起こっていることから目を逸らすんじゃない」と喚起させられる。

そこには見たくないものもあるだろう。思わず目を逸らしてしまう残酷な場面もあるだろう。しかしそれこそが我々がこれまで見ようとしてこなかった世界の真の有り様であるということ。

世界とは結局どこまで行っても分からないものである。それならばただその世界に突っ込んでおけばいい。それこそ糞尿のように、痰壺のプールのごとく、どこまでも汚物にまみれているものなのではないだろうか。

SFとはかくも世界の有り様を憂うメディアである。極めて写実的な手法を試みるゲルマンがこれに手を付けるとは意外な気もするが、むしろ世界を最も悲観してみせるゲルマンの性質を考えると、両者の出会いはむしろ必然であったと思えてくる。

ではゲルマンが「神々のたそがれ」において警鐘を鳴らしたこととは何だったのか。私が気づいたところでは人間の怠慢ではないかと考えてみる。作品冒頭で「なまけもの」といったような意味のセリフを吐く人物がいたことは示唆的である。

主人公ドン・ルマータが受けた任務の詳細について。彼はこの野蛮な惑星を調査すると共に、圧政を敷いている政府を暴力を行使せず鎮圧せよというものであった。しかし彼はこの地へ赴いてからというもの、人々から「神」を崇められ尊ばれている。ルマータに逆らう者はいない。例え不満があったとしても、人々は畏怖し決して彼に暴力は振るわない。

恐らく野蛮人と言うのは「そういうもの」だからであることが分かる。この惑星にいるのは文字通り不潔で無知な人々ばかりだ。それ自体を指して「怠慢」と指摘することは容易い。この惑星がかくも糞尿にまみれているのはそのせいである。

野蛮であり無知であることが何を示すのかというと、それは支配者にとって統治し易い阿呆の集まりであるということ。彼らは何が「良い」か「悪い」か知らない。知らないから言われたことにほいほい従ってしまう。簡単にだませる人臣というのは、支配者にとって非常に都合の良い存在である。このように学習しない人々のことをここでは「なまけもの」と評しているのだ。

しかし果たして野蛮人だけが不潔で無知で怠慢なのだろうか。ルマータは常に「臭い」を嗅ぎ、自分がこれから接するもの、口へ運ぼうとするものをチェックする。ところが手にするもの何もかもが「臭い」。この「臭さ」は文字通り不潔であることから来ているものであるが、と同時に自分自身の汚さも表していると考えることは出来ないだろうか。

今や人民から「神」と敬われヒエラルキーの頂点に君臨するルマータ。自分に歴史を動かす力がありながらそれを行使しない様子は、ただ闇雲に怠惰を貪っているようにしか見えない。もっとも当初より「任務」という名目があり、彼ら人民に対して手を下すことは出来ないのだが。

権力者の怠慢、そして常に退屈を持て余すばかりの「神」という存在。それにいま自分がなってしまった。果たしてそこで罪の意識を感じれば良いのだろうか、それとも玉座を他の誰かに明け渡した方が人民のためになるのだろうか。ところがそのどちらもしないのがルマータ自身の怠慢なのである。

嗅いでも嗅いでも臭い。それは自分からも漂ってくる悪臭ではなかったろうか。「神様はつらい」原作のタイトルは、映画においては神の憂鬱を示した言葉であったかも知れない。

さてこの「臭いを嗅ぐ」という行為が再三繰り返されることで、実際には感じられない悪臭までもが漂っているように思えてくる。映像作品における最大の欠点として、五感の全てを網羅することが出来ない点が挙げられる。嗅覚もそのひとつだが、ゲルマンはこうして登場人物に同じ行為を繰り返させることによって、臭いまでも再現してしまったとは言えないだろうか。

ゲルマンの世界を真に堪能するには「観る」「聞く」だけでは不十分だ。しかしこうして「嗅ぐ」という感覚が加わったことは、ゲルマン作品を「感じる」大いなる一助となることは間違いない。更に言えば、近接した被写体のぬくもり、臀部のやわらかさまで感じられるカメラワークによって、我々は既に「触る」という感覚も享受しているかも知れない。

帝政時代におけるロシアにおいて、インテリゲンチャが出現した経緯に似たことが、この惑星でも起ころうとしているということ。これはその後のロシア革命で明らかとなった、歴史の流れが繰り返されることを意味している。

本来ならばこの支配者に対する反乱を支援するのがルマータの役目であったはずなのだが、彼は神として崇められ地位を獲得しており、自分の指図通りに人民を操ることが可能な立場にいた。しかしそれが最後に至る悲劇を招く結果となるとはこのときまだ彼は知らない。

ルマータは恋人であるアリを殺害されたことで逆上し、その原因となった灰色隊と僧侶の兵団を一網打尽にしようと考えた。この灰色隊と僧侶軍団についての説明は特にしない。そしてこの争いは無残な死体の山を築くこととなった。

人とは得てして「力」を得ると傲慢になり、他方では怠慢を謳歌し、愚かな結末を向かえるなどといった話は古今いとまがないほどである。「神々のたそがれ」においてもルマータが正にそれに当たると指摘することも出来るだろう。

共に地球からやって来た仲間が返ろうとする中、ルマータだけはひとり帰郷を拒否する。これが意味するところはいまはまだなんとも言えないが、既に自分の居場所を見つけたルマータにとっては、地球などもはや大きな意味をなさないということなのだろう。

それともこの惑星が単純に居心地が良いからなのだろうか。それも違う気がする。要するに人はみなそれぞれどこかに「場所」を持ち、そこから離れることが出来ないものなのではないか。

「道中の点検」ではドイツ軍に参加していた主人公、つまり敵としてロシアとの戦闘に従事していたラザレフが、宗旨変えし故国のために戦うと言って投降してきた場面から物語がスタートしている。

「フルスタリョフ」では粛清の危険を感じた陸軍医師が逃亡するが、しかしその先で警察に捕まってしまう。ところが最後はまた元に戻って、スターリンの容態が悪くなったので看ろと言われて元の地位へ収まっている。「戦争のない20日間」では、いとまをもらった主人公が故郷のタシケントへ向かうという話である。

ではゲルマン自身が帰結する「場所」とはどこであろうか。答えは明白、「ロシア」である。ロシアを描くということでは他の追随を許さない。そう言った意味でゲルマンの作品はどこまで行っても「ロシア」であるということが出来る。

こうしてみるとゲルマンによる一連の作品群は、そしてゲルマン自身は、いつでもぐるぐる巡っているような印象を受けるではないか。そしてそれを端的に表していたのが「フルスタリョフ」での回診の場面、「神々のたそがれ」における根城を周遊する光景に表されていた気がする。

しかしながら一周目と二週目は異なり、三週目もまたそれまでの二周とは違ったものになっているはずである。それが人生であり、世界は少しづつディテールを違えながら、同じようなことを何度も繰り返しているだけのメリーゴーランドだと例えることが出来るかも知れない。果たしてゲルマンが狙った真の意図はどこにあったのだろうか。

2013年、心不全によりアレクセイ・ゲルマンはこの世を去っている。「神々のたそがれ」完成直前の訃報であった。しかしながらほぼ完成を見ていた本作は、脚本などを手掛ける妻カルマリータと、自身も監督である息子のアレクセイ・ゲルマン・ジュニアとによって最終的な仕上げが行われたという。

同じロシアの監督でありながら、映画を詩のように捉えていたアンドレイ・タルコフスキーに対し、ゲルマンは「映画は芸術たりえない。情報である」と断言している。対極にあるこの二人の偉大なる巨匠を比較すること自体ナンセンスであるが、その目指した結果はどちらも恐ろしく密度が高く、純粋であったとだけは言えまいか。

完全に傍観者となるタルコフスキーに対して、一人称どころかゼロ人称といってもよいほど観覧者がストーリーに組み込まれてしまうのがゲルマン作品であるといった観点からもまた、二人は対照的であると考えることが出来るかも知れない。

過激で衝撃的な内容ではあったが、私は多くは驚かなかった。何故なら、ゲルマンはこれほどの仕事をやってのける監督だと分かっていたからだ。

世界を告発し、その罪の本質を問う。人を裁くのではなく、人体そのものをさばきながら、「罪」はどこにあるのかと臓物の中をひっかき回す。それがもし尻の穴に隠してあるのだとしたら、そこへ手を突っ込んでまさぐってみるのがゲルマンのやり方なのだ。

これを「歴史的傑作」と評する事も可能だろう。しかしゲルマンの意向を汲むならば、それは必ずしも的確であるとは言い難い。「傑作」とは「芸術」に対しての評価だからだ。かねてより「映画は芸術たりえない。情報である」と唱えるゲルマンならばこう言うだろう。

「映画とは歴史そのものでなければならない」と。

最後の大仕事。「アレクセイ・ゲルマン」という大きな仕事をやってのけたこと、ここに敬意を表します。


~そして事実は映画よりも奇なり~

というわけで感想は以上となりますが、ここでちょっとした余談を。

今回観に行った映画館は渋谷のユーロスペース。映画が終わって席を立ち、ロビーへ通じる出入り口へと差し掛かったときでした。

4,5段ある階段の一番下で、初老の女性がぶっ倒れている光景に遭遇。

「う~。だれか起こしてよ~!!!」

と、うつ伏せのまま訴える女性の姿があまりに壮絶で、映画本編以上に衝撃を受けてしまったワタクシがおりました。

人も多いし、ここはもう映画館職員さんにお任せして・・・

ということで私はスルーしてしまったのですが、「神々のたそがれ」の一場面か、もしくは本編がまだ続いているのかと錯覚してしまうような光景でした。

まあ上映時間も3時間に迫る勢いなので、立った拍子に貧血。エコノミー症候群のごとく身体が凝り固まってしまい、段差でつまづいて転倒。なんてのも無理からぬ話ではあります。

自分ももう若くはないし、明日は我が身と思って、無理のない視聴計画を立てることを考えてしまった次第です。

ってか渋谷にくるのが既に億劫だわ。


@ちぇっそ@
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2015/03/25 00:16 | ロシア映画COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

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No:711 2015/03/25 07:32 | # [ 編集 ]

今更ですが

お住まいの間取りって、本当に四畳半なんですか?

もう夢精症も、自然に淘汰(使い方間違ってます)されて、しなく(出来なく)なりましたか

No:712 2015/03/25 23:18 | gumon #- URL [ 編集 ]

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