「真夜中に海がやってきた」スティーヴ・エリクソン



俺だけの/私だけの新千年紀(ミレニアム)

ここには奇妙に密接に絡みあった人間たちの物語が収められている。それは親子であったり同居人であったり、または店に訪れて来る客であったり。明確に「主人公」と特定できる人物はいないが、先ずは最初に自分の人生を語り出すアメリカ人少女を、あえてそれと据えることは出来るかも知れない。

彼女は店に来た80歳を越える老人客に向かって話し始めるが、しかし彼女がこの物語の全容を語りきるにはまだ歳が若すぎる。それではこの老人が全てを話すことが出来るのかと言えば、それも違う。老人はただ自分の人生についてのみ知るだけなのだから。

人は何故「人足りえるのか」その答えのヒントがこの本には収められている。

人とは時間に縛られた生き物である。自分が生まれた年、結婚した年、死んだ年。人は時間に意味を与え、更にその順列の中により大きな意味を見出す。

国によって基準は異なるが「成人」を祝うことは、時間に意味を与えることを意図的に作り出すために行われる儀式の一環だ。時間で区切ったり、あるいは時間に意味を見出す人間ならではの行為と言える。それはまるで時間を崇拝する人間たちが建設した記念碑のようなもの。

このようにあたかも人間は時間と言うものを支配し、その全て知り尽くしたかのように思っている。そして時間に意味を与え、自らが創造主であるかのごとき優越に浸る。しかし果たして人は本当に時間を知りえているのであろうか。

時間に本当に意味があるのなら、先ずは自分が生まれた時間について考えてみるべきだ。しかしそれはただの偶然であって、そこに意味などないことに早々気付くであろう。では成人したときはどうであろうか。それは他人から与えられた物であり、自分自身にとっては全く意味を成さないものと言える。

全くの偶然によってこの世に生を受け、他人から与えられた意味だけを頼りに人生を歩むことの何が人間であると言えるか。大切なのは、「どこで自分を意識するか」と言う点にある。

自分を意識するとはどういうことか。自我が目覚める幼少期であろうか、それとも葛藤する思春期であろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。

作中において、主人公であるアメリカ人少女が「それ」を意識したのは、カルト集団による集団自殺の中でかろうじて生き残った瞬間である。またポルノ映画の脚本家である女性にとっては、暴動の最中に発砲された一発の銃声が「それ」だったりする。また彼女は自分の映画の撮影中に起こった出来事にも酷くショックを受け、その後しばらく贖罪の生活を自らに課すこととなるのだが。

「それ」とは何か。それは「自分を強烈に意識する瞬間」に他ならない。

自分をただ意識するのと、「強烈に意識する」のとでは意味が違う。それまでの自分と全く違うものが降りかかってきたときこそ、自分を強烈に意識できる瞬間と言えまいか。真っ白な自分の中に血のような赤が突然流れ込んでくる。そのとき初めて自分が白かったと知ることになる。ときに自分を知るためにはこのような強烈な対比が必要であると言える。

それを「トラウマ」と言い換えることも出来よう。そこが分岐点となり、本当の意味での人生が始まるのだ。トラウマのある人生は素敵だ。何故ならトラウマのない人間はまだ自分の人生が始まってすらいないのだから。ここにはそうしたトラウマに向き合う人間たちの様子が描かれている。

作中に登場する「居住者」は作者エリクソンのドッペルゲンガーである。彼はカレンダーの製作に取り憑かれており、あらゆる日付と時刻の中に意味を見出し、それらをアポカリプス、つまり世界の終焉へと結びつける。

居住者によって二十世紀に起きたあらゆる事件・事故が列挙される。それらもみな分岐点と言える。トラウマが発生する、あるいはするかも知れない瞬間である。それまで純粋だった自分の終わりを告げると共に、強烈に意識された自分によって人生が始まりを告げる瞬間。

この居住者の影響を受け登場人物の内の何人かが、時折「自分は何月何日だ」と例える印象的なシーンが登場する。これはもちろん生年月日などではない。その登場人物にとっての「終わりの始まりの日」を指し示している。

ここでは既に「名前」と言うものが自分を表す記号ではなくなっている。重要なのは自分を強烈に意識し出した瞬間である。時間こそが自分であり、それこそが唯一のアイデンティティとして自分を証明するものとなる。ただしその日付の意味は当人以外には全く無意味なものである。大事なのは「自分を意識すること」であり、他人を意識することにはないのだから。

人はそうやって歴史を刻んで来たのではなかろうか。「私はここにいる」「私の人生が始まったのはここからなのだ」と訴えること。日付を辿ればそこに必ず「誰か」がいる。それが誰かは分からない。だが誰でも良いのだ。歴史が時間そのものだとすれば、時間そのものである人間こそが、すなわち「歴史そのもの」を指し示すことになるのだから。

二十世紀はトラウマの世紀であった。あらゆる時間の中であらゆる歴史が刻まれ、人はそれらに全て意味を与えてきた。何故ならそれこそが「自分たち」であったからだ。「個人」の意義は「人類」へと拡大し、「二十世紀とは果たして、我々の時代であった」とするかのように、エリクソンはここに前世紀の総括をしたと言える。

黙示録があったのは1999年12月31日ではなく、いつの時代、どの瞬間にも黙示録は訪れるのである。そしてそこから「自分なりの新千年紀」が始まるのだ。

エリクソンの小説にはどこかJ・G・バラード的な趣きが感じられる。処女作「彷徨う日々」や、米国大統領選を扱った「リープ・イヤー」にも見られたことだが、そのストーリーに何か予言めいたものが現れているからだ。そして特に本作のラストシーンには驚かされるものがあった。

これはまるで9.11のテロや、先の東日本における3.11の震災のイメージそのもの。しかもそれらが同時に発生すると言う、奇妙なリンクも見せている。もっともその繋がりは既にふたつの災厄が起こった後だからこそ結び付けられるものであるが。

1999年に本書が出版された時点でエリクソンが知るはずもなく、これらは全くの偶然であると言える。しかしこれらが起こった後に「以前とは様変わりしてしまった」と感じた人々は少なくないと思われる。奇しくもエリクソンが伝えようとしたメッセージに符号する気配があり、そう言った意味では言い当てていたといって良いのかも知れない。

作中に登場するカレンダー狂いの「居住者」がこれを知ったなら、その中に新たに付け加えるのだろうと思う。

時間に意味を見出しながら人は生きて行く。何故なら、それが自分を見失わないための道しるべとなるのだから。

こうしてまた新たなミレニアムが生まれて行く。二十一世紀の総括は既に始まっている。

悲劇は乗り越えるものではない。自分が自分であるためのものだ。

これからの新しい人生に、どうか神のご加護を。


@ちぇっそ@
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2013/03/17 14:16 | 読書感想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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