「森の惨劇」ジャック・ケッチャム



ベトナム帰還兵のリー・モラヴィアンは奥深い山中でマリファナ栽培をして生計を立てていた。ある日、彼のテリトリーからそう遠くないところにあるキャンプ場へ、作家バーナード・ケルシーを中心としたパーティがやって来た。彼らは偶然リーの農場を見つける。しかしそれが惨劇の引き金となった。ベトナム時代の記憶が蘇ったリーは過去と現在が混濁したまま、ケルシーたちにかつてのベトナム兵の影を見る。惨劇はいつも森の中で起こるものなのだ。

ケッチャムが通り一遍のベトナム物を書くわけがない。かつてベトナムに従軍していた兵士が畑荒らしの余所者を追い立て殺戮してゆく様には、確かにスリラーの趣きが感じられる。しかし彼には既に善悪の判断はない。あるのは使命感か、それとも殺らなきゃ殺られると言った恐怖感か。主人公モラヴィアンがそこに見るのは、ただそこに「ベトナム兵がいる」と信じて戦う「現実」のみである。

物語には想像力と言ったものが不可欠と思われるが、この小説はそれを超越した「想像だに出来ない現実」を付き付けてくる。戦場で経験する混乱と葛藤、そして心を失っていかなる出来事に対しても無感動になって行くその経過。その場にいた人々にとって「日常」であるその風景は、学校の授業では決して教えてくれないものだ。

モラヴィアンの心象風景の中でケッチャムはそれらを克明に描いてみせる。ところが実際にはベトナムに従軍したことのない作者が、いかにしてこの物語を書き上げたのだろうか。それにはやはり「想像力」が寄与している。

序文で語られていることだが、ケッチャムはベトナム帰還兵を取材し、その執筆中も証言と小説の内容との擦り合わせを行って「真実」との乖離を防いでいる。だからここにはベトナム帰還兵の生の声がそのまま再現されていると言っても過言ではない。作者が想像したのは恐らくベトナム帰還兵の「心理」の部分。実体験のない自分がいかに帰還兵の心理に近づけるかを想像したのだと推察される。

ケッチャム曰くこれは「書かなければいけなかった小説」だったと言う。それは作者自身が戦争へ行かなかったことから来る義務感だろうか。もちろんそれも少しはあるだろう。しかし結局のところ、これは誰かが後世に伝えなければいけない物語であったと言うこと。そしてまた「実体験のない自分にも戦争を伝えることが出来る」と言う信念の基に、ケッチャムをそれをやり遂げたのだ。

戦争体験者は語りたがらない。それ自体が戦争の悲惨さを物語っているとは言える。しかしあわよくばその重い口を開いてもらうことが望ましい。そうやって語ってくれたことは、戦争未体験者にも確実に伝わるものであると信じている。

私個人が考える「戦争体験の伝承」は正にケッチャムと信念を同くする。「歴史の一部だから」と傍観するのは、臭いものに蓋をするのと変わらない。悲惨な体験は共有されるべきである。そしてそれは実体験がなくとも可能なのだと。

解説にあるトーマス・テッシアの言葉に「モラヴィアンは地獄に送られ、故郷に地獄を持ち帰った我々の身内のひとり」と言うのがある。これが多くを言い当てていると思う。モラヴィアンは決して特別なのではない。もしかしたら「自分にも起こり得たかも知れない現実」を示した同じ人間であると言うこと。

戦争は人を変えてしまう。もう元の真ん中には戻れないのだ。ベトナムの密林から地獄を持ち帰ったモラヴィアンは、今度はキャンプ場の森で全く何でもない一般人に戦争を仕掛ける。そしてそれは新たな被害者を生むことになる。

かろうじて生き残った人々もまた、もう元のような生活には戻ることはないのだ。彼らもまた心に闇を背負うことになるのだから。「伝承する」ことの真実とはこのようなことを言うのかも知れない。それこそがスリラーと言えまいか。

悲劇は誰の身にも起こりうる。金持ちだろうが貧乏だろうが、有名だろうがその他大勢だろうが、男も女も関係なく。ケッチャムはずっとそうした物語を描いてきた。その原点が「森の惨劇」に見られるような気がする。長編としては三作目に当たる。

さあ、ケッチャムの本を手に取って森の中へ冒険に出かけよう。そこにはニューファウンドランドも開けた世界もありゃしない。あるのは閉塞した灰色の土地だけ。でもそこでは誰もが完全に平等でいられる。「感激」も「惨劇」も等しく分け与えられる。これぞ人間!生きているって素晴らしいことだと思わないか。


@ちぇっそ@
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2012/11/19 22:46 | 読書感想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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