「輪るピングドラム」第24話 最終回
何者にもなれなかった者たちへ。
さて、結局「ピングドラム」とは何だったのか。
それは形あるものであったと言えるし、形のないものであったとも言える。
作中では「リンゴ」と言う形で示されたけど、果たしてリンゴそのものがピングドラムだったのか、あるいはある過程を経て「リンゴがピングドラム」となったのか。
リンゴが先か、ピングドラムが先か。この問題に答えはないのかも知れない。
陽毬の言葉を借りるなら「生きることが罪」であると言う。
それはすごく象徴的な言葉であります。生きると言うことは実は何かを犠牲にして自分を成り立たせることでもあると思うのです。何かを食べなければ飢え死にしてしまうと言うことも含めて。
自分が何者かであるかを示すには、人の上に立たなければならないとしたら。選ばれるか選ばれないかは大きな問題となるでしょう。
選ばれると言うことは誰かに認められること。認められないものは、例え生きてはいてもこの世に存在しないと同義なのであります。身分証明書をなくしたら、誰が「自分」であることを示してくれますか?
この作品の理念の根底には、神話や文学で語られて来たことが折衷されている。
言うまでもなく「リンゴ」とは禁断の果実であります。「罪と罰」はドストエフスキーが囚われた強迫観念。
アダムとイヴはリンゴを口にするまでは正に「何者でもなかった」存在だったと言えます。
彼らはリンゴを食べたことで神との約束を破った。それは、それまでは神の創造物でしかなかった傀儡が、初めて自分たちの意思を示した瞬間だと言える。
神の逆鱗に触れることになるが、これが結果として「神にその存在を認めさせる」ことに繋がった。
間違ってはいけないが、これは決して「悪いことをして話題の人になれ」と言っているのではありません。ここで言うのは「個性」ですらなく、単に自らの意思を持って他との差別化を図ると言うこと。
「何者かになる」と言うこと、それは突き詰めるなら「気づく」作業であると言えるかも知れない。
「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは気づいてしまったのだ。世の中が欺瞞に満ちていると言うことに!
普通の人が気づかないところに気づいてしまう。こうして他との差別化に至ると、「自分だけが知っている」事実に対して「罪」の意識を覚えることになりはしないか。
自分は他を見捨てていると、被害妄想に陥るとか。もっともここまで来ると自意識過剰とも思える反応かもしれませんがね。
罪を重ねたら罰を受けるのが当たり前。晶馬がそれで自問自答している場面がありました。
しかしこのアニメで「生きていていい」と言ったのは陽毬であります。前述した私の意見を踏まえるなら「犠牲の上に成り立ってもよい幸せがある」と諭していると言った感もあるのかも。
「リンゴ」は人間ブロイラーで捕らえられていたときに、冠葉が晶馬に与えたものでもあった。それは2人の絆を繋げるものでもありました。
だからピングドラムと言う名の「リンゴ」を冠葉の前に差し出した陽毬は、きっと2人のことを承認したのだと思うのです。つまり2人の存在に気づいてあげた。かつて2人が自分に気づいてくれたことの恩返しのようにね。
訳知り顔で冠葉をたぶらかそうとする眞悧をスヴィドリガイロフとするなら、冠葉を許し、是認して救いを与えた陽毬は差し詰め予審判事のポルフィーリィと言ったところでしょうか。
もちろん全てが「罪と罰」の登場人物に合致するわけでもないですが。なんとなくイメージで。
そして忘れてはならないのが、全ての世界線をつなぎとめた苹果(りんご)。彼女がまんまリンゴの役割を果たしていたんじゃないですかね。
神話の時代において禁断であったそれは、このアニメでは「運命の果実」であったわけですね。
お姉さんから受け継いだ能力を使ったような雰囲気も見受けられましたが、世界を改変し何者でもなかった冠葉と晶馬に再び存在するチャンスを与えたと解釈すれば、正に彼女は禁断の果実そのものであったと思われるのです。
<総評>
まあそんな理屈へ理屈を重ねて、結局自分は何が言いたかったのかと言うと、よく分かってないですが(笑)
そもそも途中で話の道筋を見失ってからは、正直わけがわからい状態で惰性で見ていたところがありました。なのに最後の最後でこんな理論を展開させてどうもすんません。今更ですがw
でもわけわかんないけどラストは感動しちゃった。結末に納得しただのなんだのってのは完全に超越したレベルでね。
要するに理屈なんてどうでもよかったのだと思う。最後のサブタイもシンプルに「愛してる」だし。それだけを言うために、ここまで色々こねくり回さなきゃならないのが大人って人種なのよ、きっとw
幾原さんって言う昔の監督が出てきて、「実はこの手法発見したのはオレが最初なんだよ」とでも言いたげで、でもちょっと古臭い大げさな演出に正直ちょっと引くところもありましたが、この芝居がかったギミックの数々が最後のクライマックスを盛り上げる結果となったのだから侮れない。
恐らく創りたいものがはっきりしていたからこそ、途中でどのような紆余曲折を経ても最後の結果が揺らぐことはなかったのだと思えます。
最終回を見るまではどのように評価していいか全くわからない作品でした。「これを見続けていることは正しいことなのかな?」それくらいに思っていた時期もありました(笑)
でも正しいことがわかった。これはもう一度最初から見直す必要があるなこりゃw
2クールの積み重ねが最終回に凝縮されていた感じです。
そして何より、作中歌にARBを起用する辺りのセンスがイカレちまってるぜ!(笑)カッコいいよね。私もARB大好き!
と言うわけで、これで幾原さん完全復帰ですかね。次回作も期待しております。是非何か作って欲しいものですナw
@ムハンホウちぇっそ@

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タグ : 輪るピングドラム
2011/12/25 22:58 | アニメ感想 | COMMENT(0) | TRACKBACK(1)
コメント
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2012/01/02 | 失われた何か |
「輪るピングドラム」の最終回をセーラームーンR劇場版、セーラームーンS、少女革命ウテナを交えながら振り返る。
全ては「愛してる」。この為にあった! ついに「輪るピングドラム」最終回。 今回の記事は最後の冠葉と晶馬の描写について セーラームーンR劇場版とセーラームーンS 少女革命ウテナを交えて考えて...