ひとつの記憶として

母の弟、私にとっての叔父さんが亡くなった。脳梗塞、64歳だった。

生前の生活を知っている身としては、無理もないと思うところもある。大変な大酒飲みで、毎晩のようにスナックを渡り歩いていたのだから。

高校を卒業した私が上京し、そのとき居候させてくれたのがこの叔父さんだった。成増のアパート。

ひょうきんな叔父さんでいつも私を気遣ってくれた。とは言っても、「お前も今夜飲みに行くか?」と酒の誘いが多かったのだけれど。

叔父さんのペースに合わせて毎晩飲みに行っていたらこちらが持たない。着いて行くのはせいぜい1週間に一度くらいだった。

週末に行き着けのスナックに行き、そのまま潰れて朝まで上の部屋で寝かせてもらったことなど数知れない。

青森出身のママで、恰幅の良い肝っ玉母さんと言った風情。ママの飼っているマルチーズが目覚まし時計代わり。わんわんきゃんきゃん言いながら身体の上に飛び乗って来て、顔を執拗にぺろぺろ舐めまわすのだ。

従業員は全員フィリピン人で、唯一の男性であるマスターはファイヤーダンスが得意だった。浅黒い肌に炎を這わせ踊り狂う。ママに言葉を習ったせいかオネエ言葉になっている。だが料理の腕前は確かなもので、アパートに来て料理を作ってもらったこともあった。

フロアのお姉ちゃんたちは私にはあまり興味がないようだった。金払いの良い客が好みのようで、まだ稼ぎのない学生なぞ眼中にないと言うことだろう。こちらも彼女らのルックスが趣味ではなかったため、飯が食える以外は退屈にしていたことも原因のひとつか。

そのような生活だから家にはあまり寄り付かず、ほとんど一人暮らしのような状況であった。しかし叔父さんがいると言う安心感があったからか、ホームシックなどと言うものとはほとんど無縁で都会に馴染むことが出来たのだと思う。

内装業の会社に勤めており、力が強く身体も頑強だった。火葬の際にも骨が焼け残り、骨壷に収まるように火葬場の職員が体重を掛けて砕いたそうだ。

家のことには無頓着で、いやそんなことはなかったかも知れない。私がいたから気を遣ってあまり帰宅しないようにしていたのでは? と後になってから思ったが、真実はどうだったか今では知ることはない。

家のことにあまり関わらないから、金は稼いでいるけど振込みを忘れて、ガスと水道が止まったことがそれぞれ1回づつあった。その度に私が高島平の銀行まで立て替えに行ったっけ。

当時の奥さんとは別居していた。それから離婚したが。息子たちとは仲がよく、アパートへ遊びに来た彼らと何度か会ったことがある。叔父さん動揺に気さくな性格の連中だった。

いつだったか裁判所への出頭命令が投函されていた。そのときは何故こんな通知がと思ったものの、後になって判明する。

叔父さんが引き起こした最大の事件は、助手席が大破するほどの大事故だ。

その夜も叔父さんと私は、2人して馴染みのスナックで深夜2時まで飲んでおり、それから帰って寝た。

叔父さんは仕事があったので明け方4時に出勤(!)。私は全く気づかずそのまま寝ていた。

すると朝7時ごろに志村警察署から電話があった。

「叔父さんが事故起こしちゃってね。君が保証人になってるから来てくれないか。そうしないと叔父さん免停中だから、即交通刑務所行きになっちゃうよ」

これは大変だと思ったが、当時の人生経験のない私はすっかり途方に暮れてしまった。どうやって行けばいいんだ?

そんな折、馴染みのスナックのママがやって来た。アパートは1階にあるので、窓を「コンコン」と叩かれた。

ドアを開けてみると、ファイヤーダンスのマスターも一緒だ。3人で一路、警察署へと向かった。

道中でママから事故の状況を聞かされる。

停車中のダンプに追突し、助手席は大破。車はそのまま横転して3回ほど回ったところで止まったそう。しかもシートベルトは締めていない。

これは即死レベルだなと思ったものの、警察署へ呼ばれたのだから一命は取り留めているらしいことが伺える。いや、しかし本当に生きているのか。実際に会うまでは絶望的な思いしかしなかった。

ところが警察署の玄関をくぐった瞬間だった。背後から「よお!」と声を掛けて来る人物がある。

振り向くとそこに叔父さんが立っているではないか!

ちゃんと2本の足で歩いてくる。ちょうどトイレから出て来たところだったのだ。

確かに全身血にまみれているが、これはかすり傷だと言う。致命的な箇所は全く無傷。警察の話でも「シートベルトをしてたら逆に死んでたかもね」と言われ、正に奇跡的の生還劇。

内緒の話をここでしてしまうのもはばかられるが、本人不在の今となってはもう時効だろう。

ここで口裏をあわせる。深酒のことは伏せ、前夜は「2人で焼酎1杯づつ飲んだ」ことにしておいた。幸い叔父さんはアルコール探知機に出にくい体質なのも奏功した。

この「良い嘘」のお陰でお役御免となり、無事全員帰宅することが出来た。高校卒業したてのまだうぶな私は相当に冷や汗をかかされたが。

ここで裁判所への出頭命令の意味が分かった。免停中なのに車に乗って、たまに違反してたりなどがあったらしい。そんなことを全く知らなかったので、後から末恐ろしくなったことは言うまでもない。そんな最中にも何度も送り迎えしてもらっていたから。

まあそんなことをしてもなんとなく憎めないところがある。それはこの叔父さんの人徳と言うものか。あまりほめられたものじゃないが、しかしバンドをやりに上京して来た私なんかよりよっぽどロケンローな生き様をしてるじゃないか。

とは言え、そんなお情けが何度も通じるわけがない。それから間もなくして、再び事故を起こしてしまった叔父さんは、今度は有無を言わさず交通刑務所へとぶち込まれてしまった。

私もアパートにはいられなくなり(家賃も高かったし)、そこは即退去することとなった。事情を知らない私のところへ、いきなりお袋や親類が押しかけて来てその事が分かったのだ。

事実はいつも突然やって来る。

こんな風だから、まさかこんな早くに亡くなってしまうとは思ってもみなかった。叩いても死なない男。そんな言葉がこれほど当てはまる人物も他にいなかった。

先月くらいから身体に変調をきたしたが、しかし医者の話ではじきに良くなると言う話だった。それが急変したのは間もなくだった。

死が突如として叔父さんを飲み込んでしまった。そんな印象すら受けてしまう。

長患いをせず、生前の元気な姿だけをみんなの記憶のとどめたまま一気に旅立ってしまうとは、いかにも叔父さんらしくはある。

実は身内でも叔父さんの破天荒な生活を身をもって体験している人は少ない。私はたまたま一緒に暮らす機会があったから、その貴重な時期を知っている。

実家を離れて暮らしていた叔父さんには親密な知人の類が少ない。この度の葬儀にもごく限られた人数しか参列していない。

しかし寂しいのはそこじゃない。叔父さんがいなくなってしまったことが寂しいのだ。

遺影をまともに見ていられない。最初の焼香の後、こらえきれずに涙を落としてしまった。

ほとんど嗚咽するほどに肩を震わせてしまった。

今回のことは本当に悲しいのだ。

それでも葬式に来られて良かった。自分がいなければいけない気がしたからだ。

叔父さんと一緒に過ごした日々はとっても面白かった。今でも語り草にさせてもらっているエピソードがたくさんある。

思い出してしまうのでしばらくは話せなくなるかも知れないけど、これらの思い出は今でも鮮明な記憶として残っている。なのでまたいつか話の種にさせてもらおう。

追悼の意味を込め、このようにして私が覚えている事柄を綴っておく。

叔父さんありがとう。安らかに眠ってください。


@ちぇっそ@
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2011/11/13 01:51 | エッセイ的なものCOMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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