ロトチェンコ&ステパーノワに見る構成主義のまとめ

ここにひとつの丸があるとします。さあこの丸は一体なにを表したものでしょうか。

団子でしょうか、風船でしょうか。それとも世界平和を表した人々の「和」でありましょうか。

正解はそれらのどれでもあり、またどれでもないと言えるでしょう。それは単にキャンバスに書かれたただの丸。これだけで何を表現しているのかはまったく判断できるものではありません。

この丸は世界中のあらゆる事物、例えばみかんであったり風船であったり、また性格が温和な人など、丸いイメージを連想させるものから「丸」と言う要素を抜き取ったものに過ぎないとしたら。

ただの構成要素であり、元々結びついていた事物から切り離されることによって、その意味性はなくなってしまうのです。これがいわゆる「構造主義」であると私は理解しているのですが、違ったかな?

「構造主義」と「構成主義」。似たような言葉だけど、それが意味するところはまったく正反対を指しています。簡単に言えば、「構造主義」とは物事を解体してゆく作業であり、一方「構成主義」は物事を『解体の後に再構成』してゆく作業であると言えるでしょう。

ロシア・アヴァンギャルドの勃興には、これらの運動が特に顕著に関わっていたと今なら言えるかも。

高校時代に少し倫理を専攻していただけの私が言うことなので結構いい加減かも知れませんが、最近少しこれらのことを考えていたので、そのまとめを兼ねてロトチェンコとステパーノワの芸術を分析してみようと言う大胆な試み!?

注意書きとしてここで言う「構成主義」とは、芸術における「ロシア構成主義」を指しているので、経済や社会学とは弱冠趣きを別にしていることを断っておきます。

そもそも構造主義と構成主義の登場した時代は違ってたりするんですけどね。ロトチェンコらが標榜した構成主義はロシア革命期の1917年とかその辺り。構造主義は実はもっと後で1960年代辺りからだそうです。だったらロシアアヴァンギャルドを構造主義に絡めて語るのはお門違いじゃ?と言った向きがあるかもしれませんので、最初にすいませんと謝っておきます。

だけど私に言わせれば、もっとずっと以前から構造主義的な試みはあって、ニーチェやキルケゴール、古くはアリストテレスの時代から人間の思想を分解し、それらの分解された要素が人生にとって何を示すか?と言ったことが問われて来たのは言うまでもないでしょう。ちなみにカントは難しすぎてよく分かりません。

そこで結局どんなことが導き出されたかと言うと、「要素は要素でしかなくそれ自体には何の意味もない。だからその要素で構成された我々人間にも意味はないんだ。私はただ生かされているだけで、人間が何故生きているかなんてそんなの意味なんてないんだよ!」と言う結論に多くの哲学が行き着いていたと判断します。

禅問答のようなこの話。そう、哲学は結局のところ東洋思想に近くなって行くと言うよい証明がここにある。せつな的な運命論と言いましょうか、「生きてるから生きてるだけなんだ」、「山があるから登るんだよ」ってこと。

しかしこう少し話を単純にして、もっと有機的な方向へ展開してみましょう。

ラジカセがあったとします。それを分解してネジいっこ、光学ディスクを読み込むレンズいっこと、全て解体致しました。さあどうでしょう。このネジいっこにはどんな意味があるでしょうか。

このネジで止めるべき部品がない場合。もしくは別の規格の製品とごっちゃになって区別がつかなくなったりしたら、このネジは冒頭の丸と一緒でまったく意味を成さないものとなってしまいます。

ラジカセを構成していた部品のひとつなのですが、そこから分離させられたとき、ネジはその役割を失ってしまうことになるのです。もちろん使用目的がはっきりしていて、ちゃんと管理保管されている場合は有用な部品として認められるのですけれども。

(余談になりますが、例えばバンドの宣伝でA4サイズのポスターを制作するとして、その専用の用紙があったとします。でもこれをきちんと管理してないで、別の紙と混ざっちゃったら見分けがつかなくなるのと一緒。厚さや手触りで見分ける?そんな職人芸じみたことなんて当てにならない。紙くらいだったら捨てちゃうし、ネジだったらまた溶かして別のに流用すればいい)

話は元に戻ってラジカセの場合、単体では無意味だったネジのいっこいっこ、レンズの一枚が全て組み立てられたとき、それは有用となり存在する意味性が発現してくることになります。

もの凄く当たり前の話なのですが、「組み合わせて意味をもたせる」この部分がとても重要。さっきも言ったとおり、構成主義が事物を「再構築」することだと定義されるなら、これで少し構成主義の実体に近づいて来たわけです。でも現時点では少し違和感があるのを感じませんか?

なぁんて読者を巻き込む文学的呼びかけを利用したりして。それはともかく。

ラジカセの場合、予め設計図に則ってそれぞれ用意された部品を組み立てて行くだけなので、そこに構成主義が意味するものはありません。これは単なる物づくりをしているだけです。

では何をして構成主義と化すのか。ここに至るには「構造主義の拡大解釈」をする必要が出てくると考えます(「構造」と「構成」が入り混じって読みづらくてすまん)。それはどのようなものかと言うと、「数々の部品で組み立てられた製品もまた『ひとつの部品』として活用することが出来る」と考えられることです。

それではここに新たな要素として、水道の蛇口を用意してみることとしましょう。水道の蛇口もまた、ラジカセほどでないにしてもいくつかの部品によって成り立っています。さてこのラジカセと蛇口と言う、「部品」としての2つの要素を組み合わせてみたらどうでしょう?新たな可能性が生まれてきそうじゃありませんか!

こんなのはどうでしょう。ラジカセのど真ん中に蛇口をくっつけて、実はこれがヴォリュームのつまみになっていて、栓を開いて行くと音が大きくなる。完全に閉めてしまうとミュートされる、みたいな?

事例がお馬鹿ですいません。でもこれはひとつの発明だと思います。ある意味で構成主義とは、「物事を構成する最小単位を条件付けて、それらの組み合わせによって別の意味あるものを構築する」作業であると思うのです。

つまり、今風の言葉で示すなら「リミックス」ってヤツですね。しかしそう軽々しい言い方をするのもはばかられる部分があるんですけど。

「既に意味のある製品を『事物を構成する最小単位として拡大解釈された部品』として」組み合わせる。これがいわゆる「折衷主義」であり、これによって表現の限界がなくなり更なる高みへと芸術を押し上げる推進力となるのです。構造主義によって分解してゆくだけでは先が見えてますから。

音楽や文学の世界でも、もはや完全にオリジナル作品を創造するのは困難になって来ています。そこで先達が生み出した過去の名作から引用、またはアイデアを拝借することによって新たな創造の糧としているわけです。

そのとき重要になってくるのが「組み合わせ」となるわけですが、元ネタをそのまま用いてしまうと「盗作」になってしまう。そこでかつての名作・名曲が一体どのような要素によって成り立っていたのか分析が必要になってくる。

その役割を担うのが構造主義による「解体」。そしてそれらを再構築するために「構造主義」が用いられる。どこまで解体し、どんな風に組み合わせて行くのか。そのバランスの上に現代の芸術が成り立っていると言えないでしょうか。

私に言わせれば、そもそも「言葉自体」、「音符自体」が自分自身で開発したものではないので、それを用いる限りそこには唯一無二の個性などそこには存在しないと断言するのですが。本当にオリジナルになりたかったら、「文化そのもの」を自ら築き上げなければならないと思いますよ。まあ余談でしたが。

それではやっとこさロトチェンコ&ステパーノワの作品についての考察を行って行きたいと思います。思いますが、夫婦でありながら2人の作風が微妙に違うため、ここでは主にロトチェンコについての分析を扱う所存であります。

ロトチェンコは時代毎に於いてその作風を幾分か変化させて来ているようで、最初期、まさにロシア革命真っ只中からその勢いを残した20年代初期にかけては、事物を分解してその最小の単位で表現することを旨としていたようです。いくつかの判例を挙げるとすれば、「直線」と「曲線」、または「黒」単色だけを用いた非常にストイックな作風に終始していたと言えます。

このミニマムな作風が時として難解な印象を与え、シュールで無機的な構造主義の理念よるところの「解体」の過程であったと推測できるのです。

この流れは正に時代の潮流でもあり、シャガールがロシアへやってきたことによる影響も加味されるもので、「印象派」による線描の簡略化の最たるものと言えます。

印象派は後にキュビズム、フォービズムへと発展して行くわけですが、それがロトチェンコやマレーヴィチらによるいかにもロシア的な偏執さによって突き詰められることとなり、「構成主義」として印象派の行き着く果てとなった感があります。

ここでひとつのエピソードとして記しておきますが、少し前にレコメン系フリーミュージックの雄であるフレッド・フリスが来日する際、同時に彼の個展を開こうと言う試みがあり、とあるカフェ兼ギャラリーにメールで作品が送付されて来たときのこと。

フリスが手掛ける作品も多分にシュールレアリズム的なポップアートで、その抽象的な絵画は非常に「記号的」なメカニカルさを持っていたのです。だけどそこで問題が起こった。作者による「展示の指示」がなかったため、「どちらが上か下か」あるいは「右か左か」わからぬ自体に陥ったのです(!)

例えばインド綿とかの素晴らしい刺繍が施された絨毯が通販で届いたとします。だけどインドの文化を知らない私としては、どちらを玄関から見て正面に据えたものか分からないのと一緒。「確かにわかんねぇよな」って部分もあるし、「別にどっちでもいいんじゃん」って言う割り切り方もある。多分、作成した本人は気にしてない気がするんですが。

そんなこんなで、ここに「ミニマム芸術の弊害」が生じるわけですが、それはまた別の問題としてここでの言及は避けます。と言うより、そんな議論は検証したくないです。それはともかく。

と言った具合で、ロトチェンコの作品の中には極端なものとしてひとつのキャンバスに赤なら赤の単色だけしか塗られていないものもある。そんなのが同様に、青、黄と続き、「赤青黄」の三部作となっているのだから始末に悪い。

どうやらキャンバスの生地だとか、絵の具の質感だとかそんな細かい部分に至るまでの芸術性を楽しめ!と言うことらしいのですが、それって単に個体差でしかないので、意味合いとしては「やったもん勝ち」の理論。「先駆者総取り」の後塵を排す者としては残念至極の事態に陥ることとなります。

でもそう言った「新しい価値の基準」を提示することは芸術の世界においては殊更重要だとは思われるところです。

ロトチェンコですが、こと最初期のに関して言えばまだ充分に色彩豊かであり、そこには純粋に印象派からの影響が見て取れます。しかしロトチェンコは間もなく「もっと最小の単位で景色を印象付けることは可能か」と考えるに至った形跡があるのです。

結局のところキャンバスは「平面」であり、そこにに描かれるのは「直線」と「曲線」でしかないのだから、その2つの要素だけであらゆるものが構成できると考えたとしても不思議でない。もっともその辺りは私個人の憶測でしかないのですけど。

ロールシャッハテストの極端なもので、近くで見ると何が描かれているのか分からない。でもちょっと離れてみると、人が3人描いてあるように「見える」と言ったような。つまるところ線のひとつひとつには意味がない。それらが組み合わさって初めて全体像として浮かび上がるような、「構成の妙」を堪能する意味合いがあったのではないかと考えられます。

だから物凄く惹きつけられる作品もあれば、つまんねぇなって作品もある。それは見る人によって判断されるものであり、作者の意図とはまったく関係なく、また手法の目新しさや技法の精巧さに関係なく、「見たまま感じたまま」が純粋に評価される真の意味での客観性がそこにあるとすることが出来るかと。

そうなると意味を見出すのはキャンバスに描かれた線描ではなく、「それを見る人間の脳の中で」と言うことになります。すなわちそれは視覚のロールシャッハテストではなく、頭脳のロールシャッハテストであると置き換えることも可能と言うことです。

だから別にそれがあなたにとっては「つまらない絵」であって良いと思う。これはその人の資質を計るリトマス試験紙ではなく、単なる趣味の問題なのだから。むしろ相性判断とかに使用してもらいたいところ。

ロトチェンコはその後、デパートの広告や映画のなどポスターと言った、いわば「産業デザイン」を手掛けることとなります。もはやお馴染みとなっている革命運動や戦時中におけるプロパガンダ・ポスターなどをイメージして頂ければと思いますが、ロトチェンコは正にそのムーブメントのど真ん中にいた引率者のひとりであったわけです。

それとは時を前後するのですが、ロトチェンコはまた平面を飛び出し木材などを用いた立体の建造物を造ったり、写真に傾倒したりなどして、メディアに於ける新たな模索を始めていました(もっとも「写真・カメラ」と言うメディア自体が当時としては新しいものであったのだが!)。

ロトチェンコの立体芸術については、ある意味で構造主義の原点に立ち返ったようであり、事物を構成する要素を条件付けて、「同じ形、サイズの積み木を使って、何か新しい造型が出来ないか」と言ったことを実験していた雰囲気が感じられました。

今まであるものを利用して新たな利用価値のあるものを生み出すことは、今風に言えば非常にエコロジーで効率の良いものです。資本主義としてはまったく理にかなった方法論であると言えます。

またこれまで文学の世界で行われてきた「言葉遊び」。韻を踏むだとか、全てのセンテンスの始まりを「A」の子音からはじまる単語を用いる、だとか言った文学的な実験を絵画に用いたと解釈することも可能です。

これによって芸術は必ずしも無から生み出される必要はなく、今まであったものに新たな解釈を与え流用することで、新たな次元へ到達することの可能を示したのですね。

例えば、あるヒップホップのアーチストが、バッキングトラックにSLAYERの曲だけを使ってクールに仕上げるとかね。「縛り」があった方がモチベーションがあがるってことがある。表現への挑戦。文学・芸術のいわゆる「遊び」の部分なのですね(貴族の俳句なんてその最たるものでしょ)。

一方で写真については、ロトチェンコは早くも「新しい使い方」を模索していた感があります。アングルを変え、見たこともないような形而上的で斬新な風景を映し出すと言ったような。

これはロシア映画最初期の作品にも少なからず影響を与えていたような気がします。エイゼンシュテインはそうでもないのですが(エイゼンシュテインはむしろ早くからチャップリンなど代表される「古きよきハリウッド」へ目が向いていてグローバルな完成度を追求した感がある)、同時期の3大巨匠と呼ばれたプドフキンなどは、ゴーゴリの名作「母」などで斬新なカメラワークを用いていました。

これなどはロシア・アヴァンギャルドの父系に連なることは映画ファンなら知っていて当然の事実ですよね!(なぁんて、ロシア映画ばっかり見ている人にしか周知ではないかも知れなくてすまん)

時代は前後してしまいましたが、これらロトチェンコの内に潜んでいた要素は、映画や宣伝のポスターと言った産業デザインの分野で最高の高みに達し、「最小の単位で最高の効果を発揮する」モダンアートの原点を作り出したと言っても過言ではないでしょう。

写真と絵画、更には文字の組み合わせなどはかつて考えられなかったでしょう。写真と言うのはよくよく分解してみれば、そこに映ったもの、たとえば防止をかぶった女性なら、帽子と女性、そして着ている服など構造主義的に分解することが可能です。だけどそれをひとつの部品として考えることが出来ればそこから新たな可能性が生まれてくる。

「コラージュ」と言う手法がそれで、写真に図画や文字を組み合わることによってより多くの情報をひとつの画面に掲載できる。これはすなわち「メディアのミックス」と言うことがこの時点で既に行われていたことの証左になります。しかもロトチェンコはそれらを類稀なセンスによって分かりやすく提示することができたのです。

このようなフレキシブルさが、後にジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなどのポップアートへと繋がっていくわけですが、実はロシア革命の時期に現代アートは完成されていたと思うと、ロトチェンコに代表されるロシア構成主義のアーチストたちは桁違いの巨匠であったと言うことを今更ながら実感するに至るのであります。

もっともその後スターリンによる文化粛清の影響でこれらロシアのアーチストたちは長い年月苦渋を飲まされ、ロシア芸術の発展はしばらくの間、不本意ながら停滞せざるを得ないことになるのですが。

さてステパーノワについてですが、彼女はどちらかと言うと夫とは反対に明く能天気な作風が多く、むしろ彼女の方がポップアートに近い作風かも知れないのですが(笑)

何か救いがあります。夫婦で根暗な作品ばかりじゃ切羽詰っちゃう。ロトチェンコがひたすらシリアスだとしたら(実際はかなり遊び心がある気がするが)、ステパーノワはもっと感覚的。思ったことをそのまま作品に反映する素直さがあります。

子供が書いたような稚拙な絵なんだけど、その中にちゃんと一本筋が通っていて、時折はっとするようなインスピレーションがある。そんな衝動的な感性を残したプリミティヴさにあふれた作風だったと思います。

女性らしく、服飾なんかもしょっちゅう手掛けていたようです。この無邪気な画風は結構好きです。

そんなところで、ロトチェンコ&ステパーノワに見られる「構造主義における意味性の解体から構成主義を通した新たなる意味性の獲得を目指した事物の再構築」の講義を終えることとします。

まあ色々勉強不足とか言葉足らずだったり我流だったり長ったらしくてうんざりするだのとりあえず文章の推敲がめんどくさいので前後の繋がりがしっちゃかめっちゃかだったりする危険性を無視して一先ずアップししゃいますが、そんなことを最近考えていたのでした(読み直して後からちょととずつ修正加えるかも知れないけど)。

今だから言いますけど、小中学生のころに抱いた「将来の夢」のひとつに、「哲学者」と書いていたこともあったっけなあ。親父には「それじゃ飯は食っていけん」と言われた気がする(笑)

「考えるのは自由」ってのが要するに「哲学」だと思います。何かインスピレーションを受けて考えることが出来たときにとことん考えてみるのが最良かと思います。何事もタイミングですね。

と言うわけで、最後にもうひとつだけ補足。

ロトチェンコは建築に関してもデザインを手掛けていたのですが、こんなキッチュな絵を描いていたことから想像されるとおり、その図面もなかなかに奇抜なものがあります。このような設計図を元に建造されたものだから(ってことはないだろうが)、だからこそロシアの公園などには「ゆるキャラ」を通り越した「アヴァンギャルド・キャラ」がこれほど多くはびこっているのでしょうね。

群馬には「ジャパン・アヴァンギャルド」と言っても良い「スネーク・センター」と言うキッチュな地所があるそうですが(すげぇ行ってみてぇ!)、ロシアには至るところにこれに似た恐ろしいテーマパークが口を空けて待っているのですね。おお、くわばらくわばら。


@ちぇっそ@
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2010/06/06 18:42 | 芸術探訪COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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