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「神々のたそがれ」アレクセイ・ゲルマン

アレクセイ・ゲルマンという怪物。

~(以下、ネタバレありに付き閲覧自己責任にて)~

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2015/03/25 00:16 | ロシア映画COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

アレクセイ・ゲルマン


今日は3連休で初めてちゃんとオフになった日でした。

録画したアニメが溜まってしまったので午前中に視聴する。でも記事を書かなくてはいけないので少ししか見れなかった。別に仕事じゃないのに何やってんだろ?って気になるけど、何かやっている方が充実感があったりするので。

昼は鈴屋でつけ麺。麺を頼むと10円で日替わりのミニ丼が注文できる。今日のはカレーでした。白飯の方がスープと一緒にすすれるので良いのだけど、和風だしで取ってあってこれはこれで美味いんだな。

頂き物のビール券があったので、帰りにSEIYUへ寄り瓶ビールを2本購入。2本買える券だったのが嬉しい。ラガーと一番搾りをチョイス。

蒸し暑いのでクーラーをかけまくって、アニメを消化したりアニメを消化したり。って、アニメばっかじゃん。

早めにシャワーを浴びて、髪が乾いたところで夜飯に出掛ける。この時点でてんやに決めてました。

すると部屋の外へ出たら、あんなに暑かった昼間とは一変。肌寒いくらいに気温が下がっていました。

夕立でもあったのかと思ったけど、地面は濡れてない。でも雲行きは怪しい。でも面倒だったので傘を持たずに駅前へ直行する。

親子鶏天丼だったか、そんなメニューを注文。半熟卵の天ぷらってのが斬新でした。これはヒットした。

雨がパラつき始めたけど、タバコを切らしていたのでそのままタバコ屋へ行き、いつものコイーバを買う。

帰り道は霧雨くらいになってちょっとウザい。

風呂上りに雨に当たるのは不本意。だったら傘を持って行けって話なんだけど。

急に涼しくなりました。連休の最初からこの天気になれば良かったのに。

たまたま検索してたらアレクセイ・ゲルマンのBOXが発売されるのを知りました。彼こそはロシア映画界の至宝です。いやご意見番か。

以前にフルスタリョフだけDVD化されたことがあるきりで、他は日本版は出てませんでした。

初日本版ばかりってこの状況、こんなに冷遇された巨匠はこの人くらいだよ。映倫のせいなのかは知らないけど、今まで何やってたんだ日本の配給は!

私の中では世界最高の映画監督に君臨しています。タルコフスキーよりも評価します。と言うか、タルコはエイゼンシュテインの次に有名なロシア監督と言う位置づけですから。いや好きですけどね。

給料が出たら買おうかと思っていますがひとつ問題があって、DVDプレイヤーが壊れていてディスクを読まないので見れないのですね。でも買うって言う。

一家にひとセット。アレクセイ・ゲルマンを置いておきましょう。ゲルマンを知らない人とは映画を語りたくない(どんだけ~




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2011/09/19 22:39 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

「動くな、死ね、蘇れ!」

画面には暴力と犯罪が蔓延している。撮られた素材は未整理のままに放り出され、喧騒と混沌とが溢れ返る。誰もみな叫び、わめき、我先にと小麦を配給する窓口へ殺到する。第二次大戦直後のソ連、そこに帯びているのは圧倒的な熱。火山から吐き出され、まだ炎熱の勢いを湛えたマグマが、海のものも山のものも形成することなくドロドロのまま渦を巻き、全てを飲み尽くさんとばかりに発散されるエネルギーの塊となっている状態なのだ!

もちろんそこには戦争が生んだ悲劇をも渦巻いているに違いない。だがしかし、人々はただ前を向き、頼りない希望の糸を手繰り寄せようと躍起になっている。それとも、もはや後ろを振り返り続けることに厭きただけだろうか。憐憫の情など、生き延びるための衝動で覆い隠してしまえばいい!とでも言うように。

収容所に隣接する極東の町スーチャン。ここに住んでいるのは、どうしようもない不良少年のワレルカである。彼は日々他愛もないいたずらにご熱心。しかしある日、放蕩が過ぎ機関車を脱線させる大事故を引き起こしてしまったことから、彼の運命は風雲急を告げる。

制服姿の男が町で事情聴取を行っている。もうここにはいられないと思ったワレルカは、列車に飛び乗り、祖母が住んでいるウラジオへと向かう。彼はそこでひょんなことから強盗団の仲間に加わることになってしまうのだ。

不平と反逆心とでいつも不遜な態度をしていた少年が、いつしか本当の犯罪者になってしまう。しかしこれはノワールともピカレスクと言うのでもない。ごく短い期間に起こった出来事を切り取った、解決の糸口のない青春物語なのだ。

監督であるヴィターリー・カネフスキーの幼少時代がここに再現されている。それを演じるのは、監督をして「これは、かつての僕だ!」と言わしめた、当時まだ少年だったパーヴェル・ナザーロフ。

脈絡のないエピソードの羅列となったフィルムはしかし、ナザーロフ演じるところのワレルカによってひとつの繋がったストーリーとなる。彼の一挙一動がそのまま叙事詩となる。つまりワレルカこそが物語であり、全ての出来事との関連はことごとく彼へ繋がるのだ。

そしてもう一人の主役。彼の幼なじみガーリヤである。ディナーラ・ドルカーロワ演じるところの役は、ワレルカの母親にも成し遂げられなかったこと、ただ一人彼をたしなめ承服させたことである。

相当に意地の悪いワレルカのこと。彼女も随分と酷い罵詈雑言を浴びせかけられるので、一見してワレルカが優位に立っているように見えるのだが、彼の手綱と取り上手く先導しているのはガーリヤである。このことから、やはり主導権は彼女が握っていると見るのが妥当であろう!

奇異な表現、ショッキングな映像も交え、この映画は充分な話題性を備えている。しかしそれらによって注意を逸らされてしまってはこの映画の本質は見えてこない。ここにあるのは監督カネフスキーの「情動」である。

言いたいことや伝えたいことが山ほどある。それが奔流となってあふれ出した結果がこの映画となったのだ。「何かを読み取れ」と言っているのではない。恐らくは、「ただ感じろ!」と言うメッセージだけが聞こえてくるはずだ。これはカネフスキーを見出した巨匠ゲルマンと共通する映画制作に対する認識である。

ドキュメントの手法を取っていながらそれはドキュメントにあらず。しかし映画は決して芸術にはなり得ない。何故なら映画は「世界」であるから。では「世界」とは何を意味するのか?それは「窓」だ。窓の外を覗いてそこに何があるのかを認めた「あなた自身の目」に相違ない。

それは「現実」と言い換えても良いだろう。しかし果たして現実が「芸術」であったことなどあろうか。否!日々くだらない些事に苛まれる現実が芸術であったことなど未だかつてないからだ。映画とは「情報」の奔流である。芸術はある事物のある一瞬を捉えそれを留めることにあるが、情報とは常に流れているもの。映画は「生き物」であり、「芸術」としてそこに留まることを知らない巨大な怪物なのだから。

「スタート!」と言うカネフスキーの掛け声と共に始まった映画は最後、「カメラはその女を追え!」と言うこれまた監督の指示によって終焉を迎える。メタ的構造をなしている本作はとっくに映画の枠を超えている。否、すでに映画ですらない。

カメラはただ単に光景を捉えただけであり、そしてそれはそのまま「私自身の目となる」。事実とカメラのレンズが乖離していない、何の脚色もない。ただそこにカメラと言う名の「目」があっただけなのだ。

だからカネフスキーは信用できる。


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タグ : ヴィターリー・カネフスキー

2010/05/02 12:38 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

タイム・ジャンパー

TIMEJUMPER.jpg


戦争の遺留品を闇ルートで売りさばいているボルマン。仲間4人で今日も戦場跡地へ発掘しに来た。彼らは新たな塹壕を見つけるが、そこにあったのは自分たちの軍服姿を写した古い写真だった。そして彼らは不思議な老婆と出会いある約束を交わす。悪い幻覚を見たと思った彼らは、湖へ飛び込み目を覚まそうとするが・・・。湖の中で彼らは何者かに銃撃される。慌てて岸に上がったとき、そこは1942年、第一次大戦の真っ只中だった・・・。


ロシア発のタイムスリップSF作品。「最悪な時代」または「英雄の時代」。過去へ紛れ込んでしまったロシアの若者4人は、ドレッドヘアのチャラ男(序盤で髪を刈られる)に戦争オタク。そしてネオナチかぶれのスキンヘッズと言った雑多な面々。

始めに断っておきますが、ここには純粋な意味で言う「SF映画」のカタルシスは存在しません。これはれっきとした「戦争映画」であり、「SF」は単にスパイスとしてだけ、「本当の戦争を体験させる」ための単なる小道具にしか過ぎないのです。

情報が氾濫し、かつてはいがみ合っていたはずの「ナチ」を崇拝する者まで現れた現代のロシア。アイデンティティを喪失した本末転倒な文化の中で暮らす若者たちが、戦争の中で祖国のため身を賭して戦った兵士たちと交流し、そして彼らはやがて悟ることになる。極論的なナショナリズムなどではなく、「真の愛国心」とは何かを。壮絶でありながらも、とてつもないエナジーを発散させる物語。

迫力の戦闘シーンは、ロシア映画が伝統とする「本物志向」によって貫かれ、激しいアクションと銃撃戦に息つく暇もない。作品の重要な要素のひとつとなるこれらからは、「高揚」と「恐怖」を覚えることでしょう。

そして介護兵ニーナとボルマンによるロマンスも忘れがたい。強く逞しい戦うロシアの女であるニーナに、ボルマンは一気に惚れてしまう。かなわぬ恋だと分かっていても、若い2人の勢いは止められない。切なく、そして凄惨な結末には、激しく魂を揺さぶられるものがあります。

タイムスリップしたボルマンら4人は、自らのルーツが根無し草となった迷える現代人。つまりは資本主義化されたステレオタイプなキャラクターとして表現されています。その彼らの持つ能天気さが、戦時中の兵士たちに気晴らしをもたらすことは確かにあったのです。しかし次第に深刻さを増してくる戦況の中、彼ら4人は豊かな生活よりももっと大事な「何か」を発見して行く。

無事に現代へと戻ったとき、彼らの表情には明らかな変化が見て取れます。「今のロシアに本当に必要なものとは何か」、「自分たちが大切にしなきゃいけない物は何か」。彼らの目には、それが見えていたように思われるのです。

単に戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、現代のロシアが抱える問題をも提起する。映画としての娯楽性も充分でありながら、そのメッセージは進行形となって今とリンクしてくる。近年のロシア映画の中では、指折りをして数えてよい傑作!


追記:
但し、別物映画「ジャンパー」をパクったような、このB級感バリバリのパッケージは如何なものか。当然、作品の魅力を伝えるはずもなく、妙な偏見を招いて完全な逆効果になってしまっているじゃありませんか!

原題は「МЫ ИЗ БУДУЩЕГО」(「WE FROM THE FUTURE」)。この原題もどうかなって気もしなくはないですが・・・。

私だったら、鬼才エレム・クリモフがその映画人生を賭けて製作した、壮絶で悲惨極まる戦争映画カルト傑作「炎628」の原タイトル、「行きて、見よ!」にちなみ、(彼らは)「行って、見た!」と、したいところ。いかがでしょうか。

重い。確かに重いけれど、凄まじく面白い!
パッケージに惑わされず是非レンタルしてくださいまし。後生ですから!



監督: アンドレイ・マニューコフ
製作: セルゲイ・シュマコフ
脚本: キリル・ベルヴィッチ、エドゥアルド・ヴォロダルスキー、アレクサンドル・シェフツォフ
撮影: ウラジミール・スポルィシュコフ
音楽: マキシム・ロマセヴィッチ、イワン・バリヤーエフ

出演: ダニーラ・コズロフスキー、アンドレイ・テレンチェフ、ウラジミール・ヤグリッチ、エカテリーナ・クリモワ、セルゲイ・マコーヴィコフ、ボリス・ガルキン


We from the future promo video


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2009/02/26 22:07 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

「ワシーリー・ボルトニコフの帰還」

戦争で重傷を負ったワシーリーは、数年の入院生活を余儀なくされた。その間連絡も取れず、夫は死んだと思い込んだ妻は機械工である別の男と結婚していた。ワシーリーは実に5年ぶりに故郷のコルホーズへと戻ったが、事実を知り激怒した彼は機械工を追い出してしまう。2人は再び生活を始めるが以前のようには行かず、夫婦の仲はぎくしゃくする。ワシーリーは仕事に精を出す。そして妻もまた懸命に仕事へ取り組み、夫の信頼を得る。機械工とも和解し、農場の新たな計画の下に、皆が以前のように活気ある生活へと戻ってゆく。


1953年、満60歳でプドフキンは没しており、その前年に撮られた本作は監督の遺作となる。恐らくカラーなのだが、フィルムが褐色しているため、全編がほとんどセピア色に映し出されていたことを断っておく。

この時期になると、プドフキンが描き続けて来た「戦争」や「革命」と言ったテーマは影を潜めており(ワシーリーは戦争から帰還しているが)、あくまで夫婦の愛情を捕えた人間ドラマが主体となっている。またかつて見られたようなテーマ性も希薄である。

しかしながら、気丈に振舞う利発で精力的な妻の姿は、女性もれっきとした社会の一員であると認めるプドフキンの流儀をそこに見ることが出来る。

「労働に喜びを!」と言ったような、スターリン政権下における生産性向上のプロパガンダを覚えることは難しくないだろう。プドフキン、ドヴジェンコと並ぶ三大巨匠の筆頭であるエイゼンシュテインなどは、その信念の強さからか当局の介入を余儀なくされている。

実際のところプドフキンがどれだけ外圧を受けたかは分からないが、今風に「空気を読んで」いたのであれば、このような作風もさもありなんと思えてしまう。とは言え、「プドフキン印」を随所で確認することは可能だ。

単純に考えてメッセージ性よりも物語性を重視しており、その中では「人間らしさへの帰還」が示されている。つまるところ、人民を機械のように操り、国の歯車としか考えていない官僚及びスターリンへ対しては、むしろ最大の皮肉が込められた映画と言えるかも知れない。

数年後にスターリンが死去し、ソ連は「雪どけ」を迎える。プドフキンは新しいソ連の姿を見ることなく、この世を去る。


<ひとくち感想>
最初、「プドフキンも丸くなったなぁ」と思ったりして(笑)。偉大なる監督の遺作だと思うとノスタルジックになります。


【作品情報】
1952年・82分
監督/フセヴォロド・プドフキン
脚本/エヴゲーニー・ガブリロヴィチ ガリーナ・ニコラエワ
撮影/セルゲイ・ウルセーエフスキー
音楽/キリル・モルチャノフ
美術/アブラム・フレイジン ボリス・チェボタリョフ
出演/ナターリャ・メドヴェーデワ アナトーリー・チェモドゥロフ セルゲイ・ルキヤノフ ノンナ・モルジュコワ


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2009/02/11 18:40 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

「祖国の名において」

ドイツとの開戦。ライフラインを破壊され、孤立無援のなか奮闘するソ連中隊。しかし部隊は諜報員を派遣し、常に連絡線を保ってきた。その危険な任務に就いていたのがワーリャ。部隊長であるサフォーノフ大尉が好意を抱いている、うら若き女性である。しかしある時、スパイによって情報が漏洩し、ワーリャはドイツ軍に捕えられてしまう。間もなくソ連軍本体が到着する。作戦の遂行と彼女を救出するため、サフォーノフ大尉はドイツ軍に偽の情報を流す作戦をとる。


「映画におけるスタニスラフスキー・システムの実践」を提唱するプドフキンらしく、俳優陣の演技はみな写実的で、登場人物たちの個性的な性格付けもまた素晴らしい。

映し出される場面は2つある。ひとつはソ連中隊が陣取る前線、もうひとつはドイツ占領下の町である。この町にはサフォーノフ大尉の母であるサフォーノワがいる。そして時々指令を受けたワーリャが諜報員として潜入してくる。この2つの要素によって、前線と町が繋がっている。このように全編に渡って緻密に構成された脚本とプロットが本当に見事だ。

敵軍の弾を避けながら諜報活動するワーニャしかり、そして大尉の母であるサフォーノワもまた自らの良心と正義のため、ドイツ軍による横暴に屈しない姿勢を見せる。このように「戦う女」の姿が、以前にも増して熾烈に描き出されている。男女の別なく力強い「人間」を映すプドフキンと言う監督は、案外とフェミニストなのかも知れない。

ドイツの将校たちは無慈悲に、そして鉄面皮に描き出されている。これの対比として蔑まされるロシアの人民がより人間らしく見える、と言うことはあるだろう。このようにプドフキンは、権力者であったり侵略者と言ったものを、極端なまでのステレオ・タイプとして演出する。

この辺りの真意は分からないが、敵対する者の人間性を排除することによって、主役となる側におけるスタニスラフスキー・システムの効果を狙ったものかも知れない。「プロパガンダ」云々以前に、作品の意図を明確にした高い演出効果がある。

戦闘シーンの迫力は筆舌に尽くしがたい。光と影のコントラストを多用し、「世界の終焉」を思わせる壮絶な光景となっている。絶叫する兵士の顔、または顔。彼らの表情に伺えるのは、真に迫った「恐怖」ばかりである。

戦車の登場するシーンではミニチュアを使用し、その精巧さがまたリアルである。このようにちょっとしたSFXなど盛り込む姿勢も、「モンタージュ」などを実地に学んできたプドフキンの革新性によると言えるかも知れない。

さて、劇終盤に至る。

作戦遂行とワーリャの救出に向かったのは、グローバと呼ばれるサフォーノフ大尉と懇意の盟友である。彼はドイツ軍に偽の情報を流すため、「投降者」として敵基地へ潜入することになっていた。もちろん嘘だとばれれば銃殺。作戦が上手く行っても、情報隠蔽のためにドイツ軍に射殺される運命。任務への旅程は「片道切符」なのであった。

グローバは、彼が「銀のしずく」と呼ぶウォッカを一杯ひっかけ、大声で歌いながら出かけて行く。街へ買い物にでも行くように気軽さだが、その後姿には運命を受け入れた男の哀愁がこもっている。

彼はサフォーノフから言付けを担っていた。ワーリャに会ったら、「おまえの“夫”から、愛している」と伝えてくれと。

作戦は順調に行き、もはや勝ち目のなくなったドイツ軍は敗走の手はずをとっていた。ワーリャたちの捕えられている部屋へとやってきたドイツ兵は自動小銃を構えた。

グローバはワーリャを床にねじ伏せ、自分はドイツ兵との間に立ち塞がる。「さあ、俺に狙いを定めろ!」と言わんばかりにグローバは大声で歌う。ドイツ兵は撃つ。しかしグローバは何度でも立ち上がり銃弾の嵐を浴び続ける。

味方はやってきた。ドイツ兵は打ち倒され、ワーリャは無事に救出された。

無数の風穴が開いたグローバの身体が運び出される。言葉なき帰還、勇気ある死をもって。


<ひとくち感想>
もの凄くいい映画でした!「プドフキン、ここに極まれり」と言った感があるでしょうか。主役から脇役まで本当に魅力的。中でもやはりグローバが最高でした。ネタバレかまわず、思わずラストシーンを書き出しちゃいました(笑)。まあ、あまり見る機会もないと思うので、ちょっとくらいストーリー書いてもいいよね。個人的な忘備録って意味合いも込めて。いやぁロシア映画って本っ当にいいもんですね!


【作品情報】
1943年・94分
監督/フセヴォロド・プドフキン ドミトリー・ワシリーエフ
原作/コンスタンチン・シーモノフ
脚本/フセヴォロド・プドフキン コンスタンチン・シーモノフ
撮影/ボリス・アレツキー ボリス・ヴォルチェク エラ・サヴァリエワ
美術/アブラム・ヴェクスレル
出演/ニコライ・クリチュコフ エレーナ・チャプキナ ミハイル・ジャーロフ マリヤ・パストゥホワ オリガ・ジズネワ


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2009/02/11 10:08 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(1)  

「アジアの嵐」

そこはモンゴル。外国人の介入により労働を搾取される遊牧民たちがいる。猟師のチムールは毛皮を売りに市場へ出てくるが、上等な銀ギツネの毛皮を二束三文でアメリカ人に買い取られてしまう。白人とひと騒動起こしてしまった彼は、ほとぼりが冷めるまで山へ引きこもることにした。チムールはそこでパルチザンたちと行動を共にするようになる。しかし彼は捕えられ射殺命令が下った。ところがひょうんなことから、彼がチンギス・ハーンの末裔であることが判明し、高官たちは彼を呼び戻すのだったが・・・。


オリジナルは28年の制作だが、今回鑑賞したのは、短縮とラストの改変がされたサウンド版。

ここでもまた、過ちを犯した者が民族解放運動の先頭に立つと言ったような、プドフキンお得意のテーマが貫かれている。パルチザンの中には女もいて、男同様に戦場に立っている。「戦う女」と言うのも、プドフキン作品にはよく登場するモチーフである。

搾取する側の人間、アメリカ人やイギリス人に代表される西欧人は、一様にデフォルメされている。

チンギス・ハーンの末裔だと分かったチムールを利用し、外交に役立てようとする西欧人たち(とは言え、半ば見世物としてだが)。しかし彼らの欺瞞に耐えかねたチムールは、遂にその怒りを爆発させる。凄まじい力でもって大テーブルを放り投げ、組みかかってくる敵をつまんでなぎ倒す。窓から飛び出したチムールは馬に跨り大草原を駆けてゆく。彼の呼びかけに応じて、モンゴルの仲間たちがチムールの後に続くラストシーンで終わる。


<ひとくち感想>
ラストのアクションシーンが、主人公がモンゴル人だけにちょっとした武峡映画みたい(笑)。画面はモノクロですけど、銀ギツネの毛皮はツヤがあって本当に良質であることが伺るほど。実物を見てみたかった。フィルムがどの程度短縮されているのか定かでないですが、途中に挟み込まれる式典のようなシークエンス、その後に続く場面などが唐突な気がしました。プドフキンのもうひとつの代表作である本作、その片鱗を伺うといった程度でお慰みを。


【作品情報】
1928年・87分
監督/フセヴォロド・プドフキン
原作/イワン・ノヴォクショーノフ
脚本/オシップ・ブリーク レフ・スラヴィン ウラジーミル・ゴンチュコフ
撮影/アナトーリー・ゴロヴニャ
美術/セルゲイ・コズロフスキー
M・アロンソンサウンド版音楽/ニコライ・クリューコフ
出演/ワレーリー・インキジーノフ アナトーリー・デジンツェフ リュドミラ・ベリンスカヤ アネリ・スダケーヴィチ ボリス・バルネット


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2009/02/10 21:56 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

「聖ペテルブルクの最後」

知り合いを頼って町へ出稼ぎに来た農夫。しかし彼が勤めようとしていた工場はストの真っ最中だった。実は世話になっている家がストの首謀者たちのアジトとなっていた。仕事を得られない農夫はそのことを警察に密告してしまう。しかし革命機運が高まる時代の中で、彼は自分の過ちに気付き腐敗した帝政国家の真の姿を知る。そして十月。冬宮攻撃への合図となる大砲を、彼は撃つ。


エイゼンシュテインとは違った視点でとらえたもうひとつの「十月革命」。エイゼンシュテインはレーニンを中心に据え、ドキュメントタッチで革命の隆起から政権樹立までをスペクタクルに描いたが、プドフキンは「人民による革命」を情緒的に描いている。

プドフキンの代表作である「母」と対を成すような内容でもある。「母」では、革命運動に参加している自分の息子を密告した母が、同じように自らの過ちに気付いて捕えられていた政治犯たちの脱獄を助ける。「過ち」と「悔悛」はプドフキン作品に連なる一貫したテーマのようだ。

ラストでは今や革命の先頭に立つ農夫が、もう古びていて暴発しかねない大砲の機首へ志願する。冬宮への攻撃合図を出すためである。案の定、大砲は暴発し、農夫は瀕死の怪我を負う。そんな彼に手を差し伸べたのは、かつて自分が密告した相手の妻だった。革命は成功し、妻は彼を許したのだった。いや、例え成功していなくとも、心を改めた彼を妻はきっと許したであろう。

「母」での試みがより熟練した形で結晶した名作ではないか。


<ひとくち感想>
正に「プロレタリアートな映画」でした。仕事のない人たちの姿を見ると、まるで今の日本の現状を見ているようで身につまされる(笑)。現代の日本において、いま最も見ておきたい作品ですね。


【作品情報】
1927年・80分
監督/ミハイル・ドレル フセヴォロド・プドフキン
脚本/ナータン・ザルヒ
撮影/アナトーリー・ゴロヴニャ
美術/セルゲイ・コズロフスキー
出演/ヴェーラ・バラノフスカヤ アレクサンドル・チスチャコフ イワン・チュヴェリョフ


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2009/02/09 21:50 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

怒りの戦場CODE:ピラニア

時を遡ること1974年、とあるロシアの研究施設。そこでバイオ兵器が開発されていたが、事故が発生し施設は水没させられた。そして現在のロシア。その施設の爆破を命令されたのは“ピラニア”のコードネームを持つマズールだった。

女性仕官のオリガと伴って任務に当った彼だったが、その最中に事故が発生する。意識を取り戻した彼はプローホルと言う謎の人物に捕えられていた。プローホルはゲームの始まりを告げ、マズールを含めた捕虜たちをジャングルへと解き放つ。「人間狩り」と言う名のサバイバルが幕を切って落とされる!

ピラニア


ロシア発のアクションムービー。先ずはパッケージを見て、「ランボー」のパクリかと思って思わず手にとってしまいました。しかし実際はそんな感じではなく、ロシア版の「バトルロワイヤル」と言った印象か。裸にベストを着て、頭にバンダナ巻いた姿を見たかったんですが、それもなし(何を期待していたのか:笑)

主演のウラジーミル・マシコフは「エネミーライン」にも出演。ジマと言う堅牢な中年男性を演じているのは、「12人の怒れる男」で陪審員③(←クリック)だったセルゲイ・ガルマッシュじゃないですか。渋いところをそろえてますね。

実は悪役のプローホルと言うのがバイオ兵器開発の研究者の息子。事故当時施設に居合わせた彼は間一髪のところで脱出に成功したのです、が!しかしその後遺症からか、彼は身体の痛みを感じないと言う特殊な身体になってしまった。

プローホルが支配していたジャングルの村は帝政ロシア時代の農村のようであり、ちょっとしたロシアンオカルト的な展開。時代錯誤な気持ち悪さに期待するものがあったのですが、それより先はB級アクションへとシフトチェンジ。

アクションに関しては、敵に追われて崖から樹に飛び移るとか、走る列車の上で剣で切りあうなど、ランボーとか007のような定番の活劇が繰り広げられる。ある意味、ここは期待通り(笑)

昨今のアメリカナイズされたロシア映画の典型と言った感じで、正直微妙なんですけど、バッタバッタと敵をなぎ倒すマズールの強さが発揮される怒涛の終盤は、それなりに見ごたえがありました。

編集が少しブツ切れなのが見苦しかったりして、しかもそんなに編集してるのに何故この内容で2時間もあるのか?と言った部分は遺憾に思うところ。ディテールを詰め込みすぎて散漫になってしまったか。

興味深い要素が詰っていただけに、いささか残念な仕上がりになってしまったと言う部分はあります。とは言え、これも愛すべきロシア作品。ハリウッドとは趣きを異にした変態アクション(?)をご堪能ください。

「予告編」
Ohota na Piranyu ( Piranha)


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2009/01/19 21:52 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

チェチェンへ!そして無声映画の時代へ!

今日は絶賛上映中のアレクサンドル・ソクーロフ監督作「チェチェンへ アレクサンドラの旅」を観にユーロスペースへ行って来ました!

HP
<チェチェンへ アレクサンドラの旅>

誰を置いても現役で活動中の監督の中では、世界最高だと個人的には信じて疑わないソクーロフの最新作。夫を失い、孫のデニスが駐屯するチェチェンの前線基地へ赴くアレクサンドラ。よわい80歳にして、未知の世界へと放り出された老女を待ち受ける運命。

一見して、かつてのソクーロフらしい作品だと感じました。全編がドキュメントタッチ。坦々と、無慈悲に、カメラは戦争のなんたるかを映し出します。それは88年制作の「日々はしづかに醗酵し・・・」を思わせる荒涼とした砂と土の世界。

あれから20年経った今でも戦争は終っていない。それゆえ今度の作品には、かつては見られなかったような慈愛と郷愁が情緒的に描かれていたように感じます。「日々はしづかに~」の現代版と言えるかも知れない。しかし映し出される世界は更に深淵になり、そして現実の深刻さは増している。

カメラはアレクサンドラの視点となり、またときに従軍している兵士の視点へと移ることもある。戦争を捉えるのではなく、戦争を実体験している人間たちの中へと紛れ込んでいるのです。そこにあるのは戦争に対する批判ではない。戦いの中で祖国や家族を想い、そして自分が果たすべき責任をまっとうしようとする、ひとりの人間がいるだけ。

作品としていささか地味ではあります。初心者が見るにはには多少辛い映画かも知れませんが、未だに映画監督/ドキュメント作家として、凄まじい進化を続けているソクーロフの円熟を感じることは出来るはず。全編がご当地チェチェンで撮影されたと言うその気迫にこそ圧倒されるのです。

とまあ、感想はこんな感じですが、このところのソクーロフはホントに凄い!この10年くらいの間に撮影した作品は、全て「代表作」と言えるんじゃないですかね。信じられないバイタリティ!

もちろん既に世界的に高い評価を受けている監督ですが、それでもまだまだ足りない!ソクーロフ元気なうちにもっともっと崇拝しましょうよ。ってね。


それでもって映画を見終わった私は、銀座のフィルムセンターで開催中の「無声時代のソビエト映画ポスター展」へとお邪魔しました。

HP
無声時代のソビエト映画ポスター展

ソビエト映画ポスターに辿り着く前に、日本映画の歴史も展示されており、特に黎明期の10年代~20年代の資料なんて興味深過ぎて食い入るように見てました。発掘された映画のテレビモニター上映などもあり、当初はもちろん海外映画の模倣から始まったのでしょうが、それでも当時日本映画の革新性や実験精神など、現在と遜色ないことに驚かされました。

20年代の時点で、既に塚本信也ばりのギミックを駆使し、狂気の精神世界を描き出していた作品もありました。タイトル忘れましたけど、女房が精神錯乱を来たし、お陰で旦那も心労に陥るとか言うお話。足を血まみれにしてまで踊り狂う女房が、怖い!

ソビエト黎明期の映画工房、メジラポム・ルーシ。またはゴスキノやソフキノなど、思わず遠い目をして想いを馳せてしまうような、憧れの時代の映画ポスターにうっとり。

あ、ここにプドフキン!こっちにはドヴジェンコ!プロタザーノフにユトケーヴィチ!おお、コマロフの「メアリー・ピックフォードの接吻」まである!そしてキター!エイゼンシュテインの「十月」ポスターが2種類も!

いやもう楽しすぎて展示室から出たくありませんでした(笑)。と言うか、このままここに住みたい!自分の部屋にして、大好きなソビエト映画ポスターに囲まれて過ごしたい気持ち。もし借りられるとした、家賃いくらでしょうか?

3月まで、ひと月ごとに展示物を入れ替えて開催されているので、少なくともあと2回は足を運ぶ予定です。

入場料も大人200円なのでお手軽に訪問できますよ。ちょいと気取ったアカデミックなデートにも最適。ロシア映画に興味なくても、アヴァンギャルドな図柄で楽しませてくれるので、「絵」とかやってる方などは刺激を受けられるんじゃないですかね。再三言いますが、貧乏人にも優しい価格設定だし。

と言うか、今フィルムセンターでは日本の「怪獣・SF映画特集」やってたんすね。今日は時間がなくて見れませんでしたけど、やばい。「第三次世界大戦 四十一時間の恐怖」とか「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」なんて面白そう!


@ちぇっそ@
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タグ : ソクーロフ

2009/01/17 20:04 | ロシア映画COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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